八分隷に魅せられし書家
出会いは本人より作品が先だった。師の奥方より泰永書展を託された年、作品選別を手伝っていた最中にそれはあった。二×八尺横に書かれた流麗で美しい八分隷。目を奪われた。書作品で感動を得たのは師に次いで二人目。次々に選別される作品を見て、師への不躾を承知の上で「いただいてもいいですか?」と尋ね、次点を持ち帰ることが叶う。自室の欄間に飾り一人感動に浸る日々。「どんな人だろう」想起せずにはいられなかった。その年の書展で出会った際に、古典”名を聞くより”にあるように大きく乖離を感じる。それが森寛翠という書家を余計に私に刻むこととなる。
三年ほど経た勉強会のある日、機会を得たと体感した私は「飾らせてもらってます」と本人に白状する。「やめてよ、そんな失敗作!」最初は憤り、後に照れくさそうに彼は言った。意に介さず「とても素晴らしいです」と返すと、真顔になり「先生には遠く及ばない」と肩を落とす。その姿に、書の、書家の厳しさを感じ、受けた衝撃の体感は暫く離れられなくなる。
森さんの心の眼は常に師を向いていた。「まだ及ばぬ、まだか、まだなのか、もっと、もっと近くに、もっと、もっと」 山のように書いてくる。文字通りの山。自分の目に適わないものは捨てた上で山を積む。ある日、「日にどれくらいですか?」と尋ねると、毎日、朝から晩まで、三百六十日はやっていると答え、「時間はこれ以上どうしようもない。恐らくね、何か秘密があるはずなんだよ」と師の手練手管を探求していた。そして研究を通し「紙や筆、道具が増えて仕方が無い」そう言って笑う。
時折見せる鋭さは、正面から真っ向勝負の袈裟斬りを挑み、一太刀浴びせるまでは下がらないといった迫力を伺わせた。寛翠氏を通し、道の厳しさを感じていた自分がいる。森さんのことだ、次なる世界でも筆をとっておられるのだろう。その目線はやっぱり師を向いているに違いない。
松里鳳煌
第十六回泰永書展に展示された半切の隷書および草書
盲亀浮木の巡り合せ
ベレー帽の似合うダンデーな出立の書家、森寛翠氏が先月の八月十四日、九十一歳で鬼籍に入られた。三十年前、星大寛氏の高弟で知られた寛翠氏、師亡き後既に一家を成し得ていた彼に、王子の喫茶店で一幅の書を手渡していたことを機に、尋常ではない御縁のはじまりになった。
七十数年前の大東亜戦争の最中、震洋海軍特別攻撃隊へ志願の経歴を持つ者にとっては当然の行いともいえるが、稽古には二単(二百枚)を越す条幅の束を目の前に差し出す気概に周囲は言葉もなく、結果として九単(九百枚)の小画仙半切を使い切って一点の作品を仕上げるほどの厳格さ。六十にして腕の鍛錬に拍車も加わり書三昧の第二の人生の幕開けを見せた。千葉曽我から一時間半の道程、東京駅で最上級のステーキの昼食を取り十条へ来る。四五十センチもある半紙の束と条幅の束を提出し、疑問な点は歴代の多くの書論を読み耽り、余白もなく整然と書かれた大学ノートを手にして質問の嵐がなつかしく蘇る。
泰永展には二回展から参加。錐画沙の論をもとに漢隷を基調にした極めて整斉な結体を持つ流麗な八分を好み、琴線に真綿を包む作調を理想とした。
数年間の闘病生活を経て、昨年の暮れ、身辺整理、残りの条幅を春には送ります。」と、一通の最後の葉書が届き、人生を象徴する潔い幕切れである。八月十八日朝、御子息の奥方より連絡を受け、「この世で先生のことが一番好きだったので、これからもそちらえ伺うと思いますので、よろしくお願いします。」と、極めて丁寧な語調で森さんの御家族らしい言葉が帰ってきた。身も軽くなった彼にとって、今後も泰永展は必須の条件と推察できる。それにしても、死して尚活動を継続する森さんの気概、かたちを変えて如何様に転じられるか、お手並を拝見する楽しみもできた。このような追悼文には末尾に合掌を記すものだが、さしあたりそれもお預けらしい。
泰永会 代表 野尻泰煌
(出典元:第二十八回泰永書展・作品集P67より)
書家の森寛翠氏が泰永書展で公式に発表した最後の作品。
2010年8月27日撮影