鳳煌会の指導方針

鳳煌会の指導は、書における根源的な学書方法に加え、書家の野尻泰煌先生が見出した「正反合」による方法論を自らの経験から独自にアレンジしたものになります。

目標

「古典に立脚した作品を自ら書けるようになること」です。言い換えれば自立です。当たり前のように聞こえるシンプルな目標ですが、現実にはとても困難で容易くありません。師とは同じ道筋にいる水先案内人と言えるでしょう。

自立とは

お弟子さんは地図を持っていません。方位を示す装置も持っていません。そもそも目標すら朧気でしょう。地図は入手出来ても、その読み取り方を知りません。使い方を知りません。それは当然のことです。

自立とは、地図の読み取り方を知り、方位を示す装置をもち、自ら目的地を決められる。航海で例えれば、必要な海図を選び、羅針盤を作り、その海図を、盤面をどう読むか、どう使うか、それを知るものになります。

手本は書きません

お弟子さんにも自分の羅針盤を作ってもらい、航海が出来るような下準備を整えていただきます。羅針盤が根本的に間違っていれば、行く宛を決めても着く先は間違ってしまいます。その上で本人は気づけません。自身の羅針盤づくりは、地味で、面白くなく、時間のかかる仕事かもしれません。しかし羅針盤が出来てこそ、自由に航海が出来ると考えます。地図を選び、羅針盤をもち航海に出る。これが古典に立脚した個我の発露となります。

どうして古典なのか

古典とは、理解りやすく言えば「宝の在り処を示した地図」です。しかもその地図はとても古く、破れたり、汚れたり、間違えもあったり、どう読み取ればいいか迷ってしまいます。

では古典に基づかないとは? 簡単に言えば自ら開拓者となり宝を探し、その地図を作り、そこへ何度も赴くことを繰り返すことと言えそうです。それが如何に途方も無いことかは想像に難くないでしょう。何より、それは本当に宝なんでしょうか? 本人は確信しているでしょうが、客観的に見て宝と言えるか?となると話は別です。

古典とは言わば長い月日を経て各時代の才人達が「これはまさに宝の地図である」と認めたものです。幸いなことに現代は宝の地図が沢山残されております。それを利用しない手は無いでしょう。

指導方法

書における古典的な指導法を下地に、野尻泰煌先生が基盤にした方法論「正反合」を応用した指導になります。

当会で言う「正」とは古典の臨書をさします。宝の地図を読み解く修行です。具体的には唐およびそれ以前の書をベースに法帖を使い、様々な方法で臨書をしていただきます。馬鹿馬鹿しいと思えるような塗り絵ならぬ、塗り書もしていただきます。その資料を用意するのが私の役割の一つです。

宝の地図選び

体質にあった書体と書風を探すことが最も大変かもしれません。例えるなら海図選びです。現代は幸福なことに宝の地図は沢山あります。ところが向き不向きがある。本来であれば長くかかりかねない問です。その手助けをするのも師の役目です。

好きと向いてるは別

厄介なことに、ご自身が好きなものと、向いているものは異なることがほとんどです。人は持ち得ているものを当然とします。故に意識に触れず、無いものを望むからです。それを導くのも師の役目でしょう。私は視覚的には隷書や楷書を昔から好みましたが、体質的には全く不向きで、行書や草書が向いており、真逆でした。

ココで言う「反」とは古典を考慮に入れない自運です。古典を一旦横へ置いておき、好きなように書くことになります。現代はココが中心となっているように思います。古典と離れた行為ですが、故に楽しいものです。ただし、これだけでは道を外れてしまいます。比率にして「正」の半分にも満たない時間を割り当てます。

書家の野尻泰煌先生は、『「正」だけでは物足りぬ、「反」だけは誤りだ。「正と反をもって合となす」』と仰っておりました。人は揺さぶられてこそ自分にとって合った位置を知ることが出来るのです。その揺さぶりの為に「反」も取り入れます。その位置は常に変動します。

最後に「合」です。「合」は羅針盤が出来つつある段階から始まります。古典を下地に自ら手本を作り、自運で書き作品化していきます。羅針盤が正しく動いているかチェックし調整します。また、正しく盤面を読み取れているか指導する段階にあたります。

最後と書きましたが、厳密には下準備が出来たという意味でココからが始まりです。この後は「合」を基本としつつ、「正」と「反」に立ち返り、再び「合」へ。これを繰り返します。「合」の段階が指導を受けずとも出来るようになった時こそが「自立」した證であり、同時に巣立ちを意味します。そして作家としてのスタートラインがココになります。大変そうに感じるかもしれませんが、本当に面白いのはココからになります。この段階になると書の奥深さに触れ喜びが増し、何より藝術の一端をようやく味わうことが出来て感動に覆われます。

終生「正反」は繰り返すのですが、その理由は羅針盤が壊れていないか、地図の読み込みが誤っていないか常にチェックする為です。人の羅針盤は簡単に壊れます。「観念」「思い込み」によって腐食するからです。野尻先生のような天才をもってしも「やらないと腐る」と仰っしゃり、ご自身の羅針盤チェックを生涯欠かさず厳密に繰り返してました。

「正反」を繰り返す

お弟子さんには「正を中心とし、反も取り入れ繰り返す」というのが当会の指導方法になります。師はその舵取りをします。

当面とは、人によって尺が異なります。不器用な人は自ずと長くかかりますが、早ければいいわけではありません。私は一際時間がかかった生徒でした。長く時間がかかれば堅牢で見事な羅針盤が出来ているでしょうし、短ければ試運転を重ね経験を多く得ることが出来ます。双方にメリット、デメリットがあり、単純に「どっちが」と比較することは出来ないのです。

本人が持ち得ている体質に左右され、たどり着いた時、それが最善だったと受け入れるのがベストです。これが「是」です。答えは皆それぞれが持ちます。

書展に出す作品

泰永書展に出せるのは、「正」もしくは「合」になります。「反」は古典に立脚していないので出展出来ません。どうしても「反」を出す誘惑に抗えなくなったら当会を辞めていただくことになりそうです。会のテーゼは「古典に立脚した個我の発露」であって、「反」は単なる個我そのものだからです。

しかし個人的な意見を述べさせていただければ、それはそれで才能を開花させる可能性もあるでしょう。それで悔いが無いと覚悟を決められるのであれば、伝統的書の道を離れ、我が道を歩むのも幸福なことかもしれません。

最後に

伝統文化が絶えないようにするには「伝統に基づいた自立」と「細やかな楽しみ」の両輪が必須に思います。別な角度から見ると「天才」と「凡人」の両輪とも言えます。天才が解読、体得し伝えなければ真なる姿は消えてしまいます。これが野尻泰煌先生です。でも文化を形成するのは「凡人」です。言うなれば、私は秘宝を授けられた凡人です。

「自立」しているから続く。「楽しい」から続く。「伝統に立脚している」からこそ深みが、説得力が出る。現代は天と地の間に立つものがおらず古き慣習を嫌い「楽しみ」のみを追求した結果、文化の残骸はあっても伝統文化が失われつつあります。真なる楽しみを知らない。伝統は永々たる稀代の天才達によって受け継がれて来ました。その道が容易い筈もありません。でも、私は「書」が人生にとって大きな下支え、喜びになると確信を得ました。だからこそ書は現代日本に辛うじて残ったのでしょう。

書家の野尻泰煌先生は、登山に例えるなら全員をマッターホルンの頂上まで導こうとしました。先生は天才が故それが可能だったのです。私は全員がマッターホルンを目指す必要は無いと考えてました。「まずは高尾山でもいい」これが言い換えれば「細やかな楽しみ」つまり文化のベースだからです。小さな山でも登りきれば「楽しみ」や欲が出てきます。そこから展開するもよし、せずともまたよし。日本の伝統文化である書を次世代へ渡すお力添えが出来ればと存じます。

鳳煌会代表(泰永会副代表)

松里 鳳煌