書は人間業の結果である

書で何が表出されるのか。
野尻は、「書は魂の象徴藝術である」と言います。
氏との問答を重ねた最中で異なる言い方もしました。
「判りやすく言えば”人間業の結果”と言い換えられる」

私の書仲間には
「書は字であり字以外の何ものも表現していない。思い過ごしだ」
と述べた人もおります。色々な考え方があると思います。

私は野尻の考え方にいたく共鳴する体験が何度もあります。

年賀状の季節ですが、私は子供の頃から年賀状の手書きの字を見ます。
「今年もよろしく」の一言でもいいので手書きを好みます。
その理由は燃焼を観賞するからです。
全て印刷されたものには何ら燃焼がありません。当然のことですが。

語るよりも手書きの文字から語りかけられます。
「元気です」とか
「体調が悪いです」とか
「困難に当たってます」ということが、
「絶好調」など。
色々な今が伝わって来ます。

その中で、時折全く心当たりのない感覚を受けることがあります。
「誰だこの字の感じは?こんな字の人に年賀状出してないはずだけど?」
と表を見て、ギョっとしたことが何度もありました。
「この人はこのような字の感じじゃない」そう思ったからです。
いつから変わったのか過去の年賀状を引っ張り出すこともあります。
去年のと比較してみて、まるで別人のようであることを感じます。

「何かとんでもないことが起きている」

連絡しようと思いながら、根っからの横着からしばらく経過します。
しばらくして、忘れたぐらいに話せる機会を得て「倒れていた」ということを知ります。
「いつ?」と聞き家に帰り年賀状を確認すると、まさにその年でした。
そうした経験が幾度もあります。書はそうしたものが尚更感じられます。

腕が未熟であるほど直接的に表出されますが、
どんなに書技を磨いてもその人の歩んできた人生を覆い尽くすことは出来ないそうです。
むしろ磨きに磨き個の存在感を徹底的に排除した後に、それでも残る個の存在感。
これが本当の意味で個性であると師は語ります。

書は、それまで生きてた人間業の結果を表している。

既に告知させていただきましたが、
2012/12/21から23まで、
私が事務局をさせていただいている泰永書展が
文京シビックセンター・ギャラリーシビック展示室1Bで開催されます。
お時間が許すようでしたら我々の人間業の結果を観賞しにきて下さい。

野尻泰煌:上手くなる方法(1)

上手くなる方法(1)
「書いているという意識がないぐらい当たり前のように日々書くこと」

野尻が度々聞かれる問に、「上手くなる方法というのはあるのですか?」というものがあるそうです。野尻は答えます。「書くことです」 すると、「書いてますけど?」とかえされ、一問答があるのですが、多くの場合、野尻は相手の理解力に委ねるため、問うた本人が理解することなく問答は終わるようです。以前私は、「明らかに相手が誤解しているのに、何故先生はそれを知りながらそのままにしておくのですか?」と聞いたことがあります。すると、「相手が理解出来ないことが明白なのに、それを説明するのは酷というものだよ」と言いました。


今になって思えば、この野尻の一言というのは非常に深く、素直な本音であり、氏の累々たる修行の果てに行き着いた答えを正直に照らしていると理解できます。それが何故多くの場合理解されないかの要因について、野尻は「当然だろうね」と私に語ります。
曰く、「理解出来ないということは、今現在その道程にいないということであり、ましてや通っていもいない。その上で、私の言葉を受け入れられないということは、言葉を受け入れる度量もないということ。その時点で何も語ることはない」ということのようです。

書に限らず、上手くなる手っ取り早く確実な方法は”やること”に他ならないと重ねて語ります。書ではあれば書くこと。そう言うと、多くの場合は先述したように書いてます』という言葉が返ってくるそうです。「沢山書くこと」と答えると、『沢山書いてます』と答える人もいます。
野尻の言う”書く”ということは、”書いているという意識があるのは書いたことにならない”という意味です。ましてや『沢山書いてます』というのは野尻の感覚では「私は書いてません」と宣言しているようなものだそうです。野尻は私に、「好きと嫌いとか、調子がいいとか、悪いとか、頑張っているとか、頑張れないとか、努力しているとか、していないとか、書いているとか、沢山書いているとか、言っているうちは土台話にならないんだよね」と語ります。

「ただ書くんだよ。とにかくやるの。それが近道。頭が働いているうちは土台無理だな」
 

書技をいかに高めるか

どんな分野であれ、技術がなかれば現れてくるものは如何に才能があろうと稚拙なものになるのではなかろうか。それが例え天才と呼ばれる人であろうと。

書技を高める最短の方法は、やはり臨書かなぁと改めて思う。

しかし、ここに落とし穴があった。それは師である野尻が長い年月をかけ、私に「よく見るように」、「100枚いい加減に書くより、1枚のみ正確にか書くほうが価値がある」と耳にタコが出来るほど繰り返し伝えてくれた。その意味が腹に落ちてきた。
「いい加減に沢山書くという行為は単なる腕の運動でしかない。無意味だ。たった1枚であっても見えているものが正確に書け、それを繰り返せば身になる」と。

臨書をしていると、「おや、似ていないな」と改めて気づく。「何故似ていないのか?」と心を向け、書きながら自分を観察すると、運筆が早いと感じた。見る以上に早いため似ないようだ。見る方にエネルギーを注ぐと、自ずと運筆が遅くなった。その為、爆ぜたり、掠れたりはしないため、部分だけ見ると似たようには見えない。不満が湧いてくるが、それでも書き上げてみる。それから俯瞰してみると。
「さっきより似ているな」と気づく。

そう言えば、野尻が臨書をする時、運筆速度が落ちる。作品や手本を書く時の野尻は眼が追いつかないほど早い。過去に何千回、ひょっとしたら何万回と繰り返したであろう。完璧に覚えているであろうはずの野尻が、なぜ敢えてまだ見るとか以前問いた。
「見ないと観念が生まれるからだよ。覚えているよ。でも、そのままではいずれ観念へと移行するよ。だから覚えてなお見る。そうすると新たな発見がある」
その為、普段の運筆速度から変わるのだ。つまり今尚見ているということを意味する。観念で書いていないため遅くなる。
「見るんだよ。よーく見るんだよ」野尻は繰り返しいう。
「書けていないんじゃない。見えていないんだよ。見えていないから書けないのは当然だよ」

”見ること” これがまず書技を高めるようだ。

人間は眼からの情報量を7,8割がた頼っているようで、自分が興味がない部分は曖昧になるように出来ている。さぼるようにそもそも出来ていたと思う。見たことを全部記憶してしまうと、他の支障をきたしてしまうからに思う。その為に見た記憶は曖昧になるし、想像で勝手に補填しやすい。つまり、見ることは観念を移行しやすい。この”見えること”と”見ること”の攻防は生きている限り続きそうだ。それ故の野尻の臨書なのだろう。

次に来るのは敏になること。色々な意味で敏なのだが、今回は指先に注視したい。指先が敏にならないと筆のかつやくを正確にコントロール出来ない。筆先がわずかに紙に対し接しただけでわかるようになる必要がある。野尻の凄みはここにもある。まるで私とは次元が違う。高すぎて見えないぐらいだ。遠すぎて霞んでいる。お釈迦様と孫悟空と言えばいいか。いや、お釈迦様と村人だろう。

野尻は筆先が接した瞬間、筆のよじれ具合や向き、毛質のちがいなどもわかると言う。そんなバカなと思うかもしれないが事実そうである。ある日、筆を購入する前にいじっていると違和感に気づいた。「これ、1本違う毛が混じっているよ」と店主に告げる。そんなはずはないと店主。触ってもわからない、「これだよこれ!」とその1本を指し示す。まさかと思い筆屋に問い合わせたところ、1本誤って混入していたことがわかった。それほどまでに敏なのだ。

私は野尻の筆立ての使い方に注目していた。以前よりなんとなく気になっていたのだが、当時は何も考えていなかった。野尻は筆立てにズボっと筆を入れない。本来それでは筆が乾いてしまうし、グラっと揺れた際にバランスが崩れて筆が倒れてしまうだろう。だから、そういう意図では作られていないはずだ。しかし野尻は全ての筆立てに挿している筆がそうなっている。ズボっとささず、腰でとめる。私は最近になり、「まさかこれは筆先がつかないようにしているのではなかろうか?」と思うに至った。それを質問した時のことだ。

「よく気づいたねー。その通りだよ。こうしないと筆先がダメになるからね」

なんと、野尻はズボっとすると毛が圧力を受けて弾性が僅かに変化し、癖がついてしまうのがわかると言う。それを感じ、本人曰く「気持ちが悪い」と言う。書いていて違和感が気になり書くことに集中できないというのだ。筆というのは書いていると中から新しい毛が出てくるのだが、その毛のできがよくないこともある。すると、野尻はまだまだ使えるであろう筆を捨てる。
「最近の毛筆はどれもこれも出来が悪い。職人さんがいないんだよね。困っちゃうよ」 と嘆く。
以前、頼まれて筆作りの企画に参加したこともあるが、ことごとくダメだったという。何度も作りなおさせたけど、「まーいいかな」と思えるのは2,3本しかなかったそうだ。

あの指先の敏さが、あの作品を生み出している下支えになっているのは間違いない。

しかし一方では、「それはあくまで技術的なはなしであって、それは鍛えればどうといこともない。プロとしては最低限の世界だよ。芸術となるとそれだけではない。むしろもっと大変だよ」と自らの持って生まれた能力、鍛えに鍛え上げし能力をまるで毛ほどにも感じていない。

・見ること、見えること
・敏であること

まずはこれらが書技の根底にあるように思えた。

美観と精神

来年へ向けての作品のトライは既に始まっています。
その中で自らの美観について気づかされることは多いです。

私は集合美が好きです。
なので隷書や楷書を目が好むのですが、
これは何も書に限ったものではありません。
あらゆる事象に関しても密集しているものにある種の美を感じます。
新宿にある「うまい棒」(鳥の巣ビル)を見ると何度みても感動します。

草書にも関わらず密集させてしまうのです。

書きあがった結果をみると、
より大きく、より密に、と書いてあります。

こうしたブログの文章にしても、
私は密で大量です。
やはりそういう美観があるようです。

草書は間合いで見せる部分が非常に重要です。
これでは間合いで魅せることはできません。

密集させたいという美観は
同時に私の精神性の反映そのもののように思えてきます。

私はとかく費用対効果を気にします。
投じた費用に対してどれだけ効果を発揮するかという考えです。
ビジネスにおいては基本でかつ重要な考え方です。

サラリーマン時代に耳にタコが出来るほど仕込まれたという
のが要因でありますが、こうして自らの書を客観的に分析すると、
元々集合美に対し美観があったので、
そういう考え方を受け入れる精神的素養があったと考えられます。

書を通して精神的な幅を広げることは可能でしょう。
むしろその部分が大切に思います。
昔から日本人が書を続けていたのには教育上ちゃんとした理由があったのだと改めて思います。

書は精神性の表れそのものです。
自分の素地とは逆のことをすることである種の枠を無意識に植え付けることが可能です。
書の反復行為というのは比較的容易にできます。
人としての幅を広げるのに書にいそしむ反復行動には意味があると考えております。

私は元々密に美観があるため、
疎の反復をすることで、自らの精神性に疎の背景を加えることが可能になると考えています。

見る好みと、書ける能力は別

私は見る分には楷書、隷書が好きです。
でも、書こうとすると肉体の奥底から「書きたくない」という塊が湧いてきます。
それを無視して書くとやはりストレスになるようで手が止まってしまいます。

野尻は、「好みと能力が一致している人は珍しい」といいます。

私は典型的な例のようで、
見る好みと、実際に持っている能力が真逆のタイプ。

「ここまで逆なのも珍しいけど、
完全に一致している人もそうはいない」と言います。

好みと能力は別ということです。
能力にないことをやるのは肉体的ストレスになり身体が拒絶するようです。
好みと違うことをやると楽しくはないものの肉体は受け入れるためストレスにはなりません。
不思議なものです。

好みと能力が努力によって寄り添うことは永遠にないように思います。
持って生まれたものですので。
人間は肉体をベースにした生きものですので、
肉体の能力にあった方向性に進みつつ、時折好みに手をつけるぐらいが良さそうです。
ただし、

「草書を習熟する書家は、
結果的に楷書も書けないと草書の大家にはなれない」と野尻は語ります。

「草書が体質に馴染むものは上達するほどに
余計に点折が曖昧になり流れてしまう。
経年と共にそれをよしとしてしまい、思い込みが出来る。
流れた草書は書にあらず。点折が出来ていてこその草書である。
それを防ぐためにも楷書はやらざるを得ない。
結果的に草書の大家は楷書の大家にもなる」 

師匠から渡された課題に楷書がありました。
新たな段階に入ったようです。
楷書・・・書きたくないなぁ。(笑)
師の楷書が素晴らしすぎる。
まぁ、仕方がありませんね。
下手は下手で受け止めるしかありません。

伝統という巨人

物理や科学なども先人たちが蓄えてきた知識が技術の累積があって今が存在します。
ニュートンも、
「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」
という答えをしています。ここでいう巨人の肩とは先人たちの研究成果や発見や知恵の数々でしょう。

芸術におきかえるとそれを伝統というのではないでしょうか。
巨人の肩にのらずして、自ら巨人になるには人の一生はあまりに短いです。
伝統技術を無視することは自らが過去の天才たちを遥かに越える、
「超越的天才になる!」という宣言に等しいような気がします。
漫画の世界であれば主人公がいいそうなセリフでカッコイイですが、現実にはどうでしょうか。

ありがたいことに現代では、巨人は本であったり写真であったり時として実物であったり色々な形でいつでもスタンバイしております。
後はその肩に自らのりにいくだけです。
最初は十中八九振り落とされる日々が続きます。
しかし、徐々に上手に乗れるようになるでしょう。

書も、見えないうちは、「書に技術?どこに?冗談じゃない」と思うでしょう。
今もの私の父は「毎年みにきても書はわからん!!」といいます。
師に曰く「じゃあ、絵は見ていると思う?それは勘違いだね。実際は見えていないよ。書が見えなくて、絵がみえるなんてことはない。みえている気になっているだけ」といいます。
確かにそうかもしれません。どの世界でも同じだと思います。
よく我々はプロスポーツ選手のプレイをみて、ブーブー文句を言うでしょう。私も一人で観戦しなが言ってました。
よくこういうことを仰るかたもおります。
「あのプレイのどこが凄い?俺でも出来る」
そう考えてしまうものです。
でも実際やってみて「あれ?嘘?なんで出来ない」となるでしょう。
当然なのです。
もし出来たらプロになるべきです。中には本当に出来てプロになるかたもいますので嘘とはいいません。
往々にして自分の能力を把握していないだけなのでしょう。

せっかく巨人が待機しているのであれば、大いに肩にのせてもらおうではありませんか。
とはいえ、肩にのるだけでも一苦労ですが。

書道?書パフォーマンス?

私の考えを「思想」というラベルで分別し、書いていきたいと思います。
同時に「書道」ってなんだろうという考えを「書道というカテゴリを考える」ではっておきます。
拙い知識と見識なため、至らない点も多いかと思います。
興味のない方は素通りして下さい。

昨年から書道が注目を浴びているとの話をよく言われます。
「そうだね」と言う一方で、
毎度のことながら「あれは書道なのだろうか?」と思いを馳せることしばしばです。
「ま、一緒くたに書道でいいじゃん」と言われてしまえば、
「だよねー」で済ませてしまう性格です。
もとより派手なのは好きなのと、お祭り騒ぎは好きなので、嫌いではありません。
ですが、内心は完全に区別して考えております。

「書道」は、「書」「道」であるが故に伝統とそれに伴う蓄積があると思います。

また、結果を見せるものであって、その書いている過程を見せるのが主ではないと思います。
つまり書いている経過が派手であっても、作品が残念なものでしたら意味がないと考えます。
確かにああした行為は目を引きますが、作品が上手くかける為の行為ではありません。
とすると、あれ「筆パフォーマンス」であって、書道ではないと考える方がしっくりいくように思います。
旧来からの書家からすれば言語道断なのでしょうが、私は嫌いではありません。師匠の眼光が鋭く私をいりそうです。(笑)
ただ、あれを「書道」と言われると「え?」と目が点になってしまいます。

目的を決めないで旅に出れば、どこへつくか誰にもわかりません。
当然です。それがいけないと言うわけではありません。「目的を決めていない」ことを把握していることが大切だと思います。
それと同じで、「書」の道を歩むのか、「筆」パフォーマンをやりたいのか、目的地は決めておいたほうがいいように思います。繰り返しますが「決めていない」とわかった上であれば決めなくても構わないと思います。なので、筆パフォーマンスから書の道へ進むのもアリだと思います。何せ道具は基本的に一緒ですから、わりとすんなり入れると思います。

気になるのは、目的を決めずに旅をしていると、知らぬうちに目的とは違う場所についてしまうことです。それでも構わないのですが、人は往々にして「ここが目的地だ」と勝手に思い込んでしまう場合があるということです。目的を決めてもたどり着くのは大変なのに、決めなければ尚更大変だから仕方がありません。例えば、熱海にいくつもりで、札幌にいた場合。
「ここが熱海かー」と言われても、
「いやいや、札幌ですから!」と突っ込まれてしまうでしょう。
それでも本人は恐らく気づかないでしょう。それでは話が噛み合いません。

いずれの道も極めるのは一筋縄でないことは確かです。
上を見れば果てはなく、下をみても底は見えません。
お互い精進しましょう!!