鳳煌会の指導方針

松里鳳煌による指導は、書における根源的な学書方法に加え、書家の野尻泰煌先生が見出した「正反合」による方法論を自らの経験から独自にアレンジしたものになります。(コースによる)自身が極めて不器用であったことから、丁寧な指導を心がけております。

目標

「古典に立脚した個我の発露」です。言い換えると作品を自ら書けるようになることです。当たり前のように聞こえるシンプルな目標ですが、現実にはとても困難で容易くありません。インターネットで動画や記事を閲覧しても玉石混交で迷うばかりでしょう。師は同じ道筋にいる水先案内人と考えて下さい。

Photo by 写真AC

コース

自立した作品を書くことを目的としていない方もおられると思います。日常におけるちょっとした文字を筆で書きたいなど。言い換えれば「実用の書」です。そうした方には異なる目標を掲げます。なお、このコースは「書道」ではありません。同時に作品化を目的としない為、書展への出展資格は消失します。

本来は古典から学びその集大成として「手習いの書」が「書家の書」になります。「実用の書」はその一部ですが、このコースでは日常のワンシーンで使うことが主となり古典は学びません。文字サイズも3cm以下、葉書やのし袋での筆記を想定し、使用する筆も小筆のみに絞ります。主に小筆に親しむことからはじめ、行書、草書を主軸にします。「実用の書」から「書道」へコースを変更することは可能ですが、ゼロからのスタートなると心得て下さい。用筆法も自ずと異なってきます。入会時に「実用の書」を学びたいとお申し出下さい。

中間に位置するのが「日常の書」です。古典に立脚しながら半紙を中心とした書作品を残すことが出来ます。また、このコースは「書道」への変更が容易です。何故なら延長線上にあるからです。書展へ出展することも可能です。

筆パフォーマンスについて

当会ではパフォーマンスを主とした「パフォーマンス書道」当会で言う「筆パフォーマンス」は指導しておりません。筆パフォーマンスは、筆と墨を使ったパフォーマンスが目的であり「書道」とは異なると考える立場です。

書道は作物を見せるものです。書く工程、動作はパフォーマンスです。パフォーマンスが魅力的であっても作品が悪ければ意味をなさない分野です。対して筆パフォーマンスは、衣装を含めた演出が表現母体であり、作物は二次的なものに過ぎません。パフォーマンスとしての技術はあっても、古典に則った用筆法はありません。筆をつかった魅せるパフォーマンスを如何にするかが主軸となります。パフォーマンスの一つの表現分野と考えますが、書道とは明白に分けております。

書道における自立とは

古典というのは言い換えればお宝です。お弟子さんはお宝への地図を持っていません。方位を示す装置も持っていません。そもそも目標すら朧気でしょう。地図は入手出来ても、その読み取り方を知りませんし使い方も知りません。それは当然のことです。

自立とは、地図の読み取り方を知り、方位を示す装置をもち、自ら目的地を決められる。航海で例えれば、必要な海図を選び、羅針盤を作り、その海図を、盤面をどう読むか、どう使うか、それを知るものになります。

多くの修行者は古典の臨書が最も大切だとは知識として知っていても何故大切か、臨書で何をするか、何を学ぶかを知りません。知らないと、獲得出来るものが変化してきます。それらを理解し、体得してこそ古典に立脚した書が可能となります。

書家コースは手本を書きません

お弟子さんにも自分の羅針盤を作ってもらい、航海が出来るような下準備を整えていただきます。そのために、基本的に当会では手本を書きません。(子供や、実用の書は別です)道に入る時、師匠の手本という羅針盤が存在すると、比較的楽に進むことは出来ますが、後に師匠の羅針盤に依存することになり、自立を妨げる要因になります。師匠の羅針盤はあくまで師匠その人に最適化された羅針盤です。

自立した作品を書くには、自身に最適化した羅針盤を作る必要があります。その際に、道先やルートの誤りを是正するのが師匠の役割です。師匠の羅針盤に依存していると、自分で決めたつもりでも実は師匠の羅針盤の影響から逃れることは出来ません。その上で本人は気づけないでしょう。

自身の羅針盤づくりは、地味で、面白くなく、時間のかかる仕事かもしれません。しかし羅針盤が出来てこそ、自由に航海が出来ると考えます。地図を選び、羅針盤をもち航海に出る。これが古典に立脚した個我の発露となります。

どうして古典なのか

古典とは、理解りやすく言えば「宝の在り処を示した地図」です。しかもその地図はとても古く、破れたり、汚れたり、間違えもあったり、どう読み取ればいいか迷ってしまいます。

では古典に基づかないとは? 簡単に言えば自ら開拓者となり宝を探し、その地図を作り、そこへ何度も赴くことを繰り返すことと言えそうです。それが如何に途方も無いことかは想像に難くないでしょう。何より、それは本当に宝なんでしょうか? 本人は確信しているでしょうが、客観的に見て宝と言えるか?となると話は別です。

古典とは言わば長い月日を経て各時代の才人達が「これはまさに宝の地図である」と認めたものです。幸いなことに現代は宝の地図が沢山残されております。それを利用しない手は無いでしょう。

指導方法

書における古典的な指導法を下地に、野尻泰煌先生が基盤にした方法論「正反合」を応用した指導になります。

当会で言う「正」とは古典の臨書をさします。宝の地図を読み解く修行です。具体的には唐およびそれ以前の書をベースに法帖を使い、様々な方法で臨書をしていただきます。馬鹿馬鹿しいと思えるような塗り絵ならぬ、塗り書もしていただきます。その資料を用意するのが私の役割の一つです。

宝の地図選び

体質にあった書体と書風を探すことが最も大変かもしれません。例えるなら海図選びです。現代は幸福なことに宝の地図は沢山あります。ところが向き不向きがある。本来であれば長くかかりかねない問です。その手助けをするのも師の役目です。

好きと向いてるは別

厄介なことに、ご自身が好きなものと、向いているものは異なることがほとんどです。人は持ち得ているものを当然とします。故に意識に触れず、無いものを望むからです。それを導くのも師の役目でしょう。私は視覚的には隷書や楷書を昔から好みましたが、体質的には全く不向きで、行書や草書が向いており、真逆でした。

ココで言う「反」とは古典を考慮に入れない自運です。古典を一旦横へ置いておき、好きなように書くことになります。現代はココが中心となっているように思います。古典と離れた行為ですが、故に楽しいものです。ただし、これだけでは道を外れてしまいます。比率にして「正」の半分にも満たない時間を割り当てます。

書家の野尻泰煌先生は、『「正」だけでは物足りぬ、「反」だけは誤りだ。「正と反をもって合となす」』と仰っておりました。人は揺さぶられてこそ自分にとって合った位置を知ることが出来るのです。その揺さぶりの為に「反」も取り入れます。その位置は常に変動します。

最後に「合」です。「合」は羅針盤が出来つつある段階から始まります。古典を下地に自ら手本を作り、自運で書き作品化していきます。羅針盤が正しく動いているかチェックし調整します。また、正しく盤面を読み取れているか指導する段階にあたります。

最後と書きましたが、厳密には下準備が出来たという意味でココからが始まりです。この後は「合」を基本としつつ、「正」と「反」に立ち返り、再び「合」へ。これを繰り返します。「合」の段階が指導を受けずとも出来るようになった時こそが「自立」した證であり、同時に巣立ちを意味します。そして作家としてのスタートラインがココになります。大変そうに感じるかもしれませんが、本当に面白いのはココからになります。この段階になると書の奥深さに触れ喜びが増し、何より藝術の一端をようやく味わうことが出来て感動に覆われます。

終生「正反」は繰り返すのですが、その理由は羅針盤が壊れていないか、地図の読み込みが誤っていないか常にチェックする為です。人の羅針盤は簡単に壊れます。「観念」「思い込み」によって腐食するからです。野尻先生のような天才をもってしも「やらないと腐る」と仰っしゃり、ご自身の羅針盤チェックを生涯欠かさず厳密に繰り返してました。

「正反」を繰り返す

お弟子さんには「正を中心とし、反も取り入れ繰り返す」というのが当会の指導方法になります。師はその舵取りをします。

当面とは、人によって尺が異なります。不器用な人は自ずと長くかかりますが、早ければいいわけではありません。私は一際時間がかかった生徒でした。長く時間がかかれば堅牢で見事な羅針盤が出来ているでしょうし、短ければ試運転を重ね経験を多く得ることが出来ます。双方にメリット、デメリットがあり、単純に「どっちが」と比較することは出来ないのです。

本人が持ち得ている体質に左右され、たどり着いた時、それが最善だったと受け入れるのがベストです。これが「是」です。答えは皆それぞれが持ちます。

書展に出す作品

泰永書展に出せるのは、「正」もしくは「合」になります。「反」は古典に立脚していないので出展出来ません。どうしても「反」を出す誘惑に抗えなくなったら当会を辞めていただくことになりそうです。会のテーゼは「古典に立脚した個我の発露」であって、「反」は単なる個我そのものだからです。

しかし個人的な意見を述べさせていただければ、それはそれで才能を開花させる可能性もあるでしょう。それで悔いが無いと覚悟を決められるのであれば、伝統的書の道を離れ、我が道を歩むのも幸福なことかもしれません。

師範の資格

入会前に師範の資格を気にされる方は当会は向かないかもしれません。師範は当会で認定することは可能ですが、数十年単位とお考え下さい。カルチャースクール的な感覚で1~3年程度内で資格を発行することは考えておりません。それは出来ないからです。3年は筆に馴染むまでの時間です。

師範以外の認定は適宜実施いたします。また40歳以上から始められた方は特別な場合を除き師範は諦めて下さい。残念ですが時間が足りません。師範を得るには一つの古典に絞った鍛錬と、実際的に手の内に古典が入っている必要があります。その上で様々な知見が得られていることが必要になります。

当会では先師野尻泰煌先生の指導方針に乗っ取り、理論ではなく実際に出来ることを重視しております。その為にはどうしても時間が必要になります。「古典に立脚した個我の発露」が可能となり、師の導きなしに自ら道に分け入ることが可能になった段階で師範となります。言えることは出来るだけ長く続けて下さい。師範の資格は仮に得られなかったとしても自らの人生における拠り所になることはお約束出来ます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

最後に

伝統文化が絶えないようにするには「伝統に基づいた自立」=「作品」と「細やかな楽しみ」=「実用等」の両輪が必須に思います。別な角度から見ると「天才」と「凡人」の両輪とも言えます。私は天才の「て」の字も無かった不器用な人間です。凡人の師匠と言えるでしょう。野尻泰煌という天才が解読、体得し、伝えた「書」を今に伝えようとする者です。文化を形成するのは「凡人」です。言うなれば、私は秘宝を授けられた凡人師匠です。

伝統文化というのは「自立」しているから続く、「楽しい」から続くに思います。少なくとも昭和まではそういった側面がありました。伝統に立脚しているからこそ深みが、説得力が出ます。

現代は天と地の間に立つものがおらず古き慣習を嫌い「楽しみ」のみを追求した結果、文化の残骸はあっても伝統文化が失われつつあります。真なる楽しみを知らない。伝統は永々たる稀代の天才達によって受け継がれて来ました。その道が容易い筈もありません。でも、私は「書」が人生にとって大きな下支え、喜びになると確信を得ました。だからこそ書は現代日本に辛うじて残ったのだと感じ得ました。

書家の野尻泰煌先生は、登山に例えるなら全員をマッターホルンの頂上まで導こうとしました。先生は天才が故それが可能だったのです。私は全員がマッターホルンを目指す必要は無いと考えてました。「まずは高尾山でもいい」これが言い換えれば「細やかな楽しみ」つまり文化のベースだからです。小さな山でも登りきれば「楽しみ」や欲が出てきます。そこから展開するもよし、せずともまたよし。日本の伝統文化である書を次世代へ渡すお力添えが出来ればと存じます。

鳳煌会代表(泰永会副代表)

松里 鳳煌