前文
第三十一回泰永書展に出展した自作を元に「古典」と「現代」における「時代のズレ」とその「調和」について記しておきたい。大枠の大前提の部分を書いて今回は閉じようと思う。
留意事項
大枠を [公開]野尻泰煌:古典と現代の調和#1 として一般公開し、以後は深い話になってくることから [弟子]野尻泰煌:古典と現代の調和#2 にて踏み入った部分を書きます。会員専用フォーラムから必要なパスワードを拾って下さい。疑問点は直接投げていただければ幸いです。
弟子向けの意味
私は「全てを公開した方が面倒が無いんじゃかろうか?」と思ってました。その考えは野尻泰煌先生と議論を交わしていく中で完全に変わりました。師の仰るように、言うべきタイミングと内容というのはあり、フルオープンは寧ろ害になる部分が多いことを体感。それ故です。
深く道に分け入るには常に事にあたるしかない。誤った情報はまことしやかに存在するし、自身も常に誤りを抱えながら存在する。それは「書」でも同じ。それを教えてくれたのは野尻泰煌先生です。
同時に全ての道に分け入ることは不可能です。出来ない以上は関わらないか、肝心な部分だけ把握し大きく構え、それ以上進まないに限ります。これは野尻泰煌先生の言葉です。師は「枝葉末節は知るだけ無駄。本筋さえ把握すればいい。本筋が書いてあるのは古典にしかない」とおっしゃいました。
そうした背景をご承知の上でご興味があれば読み勧めて頂ければ幸いです。本に纏めることを前提にしているため、文章の書き方が変わりますがご了承下さい。
前提
何事も学ぶには古典から立ち上げる方が良い。それがピンと来ない場合はこの文章はただ長いだけのものになるので、先述したように関わらない方がいいかもしれない。
大凡200年前のゲーテの時代ですら「最近の若いもんは古典を余り学ばない。嘆かわしい」といった感じの言葉を残している。つまり現代なら尚更である。当時より資料は失われているからだ。
豊かさ
古典を学ぶ理由は「豊か」だからだ。一人の人間の豊かさというのは小さい。そこで「豊かさ」を外から栄養として取り入れる為に古典を学ぶ。
表現とは即ち豊かさで決まる。常に鑑賞者側の「飽きる」との戦い。「飽きる」のは栄養を食べ尽くしたからである。もっとも鑑賞者側の問題もある。目が足りてない、知識が不足していることが起因することも非情に多い。が、そうした人を相手にしても無意味だと師は言う。「そこを見るのなら作家活動は止めた方が良い、時間の無駄だよ」と言った。
「豊かさ」を食べ尽くしてしまう。「見る目以上の作品は出来ない」これは野尻先生の言葉であるが、裏を返すと「見る目」が出来ると「見えなかったもの」が見えてきて「豊かさ」が食べられるようになる。見る才能があり、その上で育ち、「豊かさ」を食べ尽せば、最終的には「飽きる」に到達する。
そこを抗うのは表現者だ。最高の鑑賞者は自分であり(見る目以上の作品は出来ないから)「飽きさせてなるものか」と精進する。更に「豊かさ」を獲得し食べられるようになり、また食べるが、いずれ食べ尽くす。この繰り返し。そう考えると本当に作家というのは因果なものだ。師も言っていた。
自然
豊かさを得る為に古典をやるわけだが、古典以外に教科書はある。最も手っ取り早く最も取り組みづらい。それは「自然」だ。
ゲーテは「作家はもっと自然に目を向けるべきだと思う」と言った。だから彼は自然を研究し、論文を書き、その一つは現代にまで残すほどの書物となっている。「色彩論」だ。
でも彼にとっては自身の表現の「豊かさ」を獲得する為の手段に過ぎない。友人であり、ある意味では弟子でもあるエッカーマンにも自分なりの視点で自然を観察し本に纏めたらいいと勧めている。つまり「手段」だ。目的は「豊かさ」の獲得である。
古典と自然からの学び。これは同じことを意味する。自然は重複が無く表情が無限のごとく多様で「豊か」だ。ダヴィンチもそうだったようだ。一人過ごしたヴィンチ村で楽しみと言えば自然だったと読む。彼の後に禁を犯してまで解剖とか平気で出来たのははやり幼少期の成り立ちの影響が大きいのだろう。
時代
話を戻す。あらゆる表現は時代を背景にしている。つまり作家が生きた時代だ。それを無かったことには出来ない。時代の影響は作家の背景を作り無意識下に沈殿しているのでそれを無視することは出来ない。
師が言うところの「時代を超えることは出来ない」である。ここに古典を学ぶ上で避けられない課題がある。ヨーロッパではそれを肌で理解しているのに対し、残念ながら「日本人の作家の多くは言葉ですら理解していないように思う。この差は大きい」そう野尻先生は言った。
2017年にハンガリーへ赴き、何よりショックだったのがその点だったそうだ。先生が日本を見限った年でもある。
古典とのズレ
当然ながら古典とは時代がズレる。何から何までが違う。日本人にしても同じだ。江戸時代の写真等を見てみると、かくも違うものかと痛感するだろう。逆側に立てば、「あんたら何人?」と言われるに違いない。100年程度でその状態なので、当然ながら国が違えば尚更であり、加えて古典期との開きは埋まらないだろう。
埋める必要性
「そもそも埋める必要ありますか?」そうした質問が出てきそうだ。私も質問した。曰く「当たり前でしょ」以上。(笑) 呆れていた。これは後々自分なりに考察し、踏み込んだ際に自己の見解を述べ答え合わせが出来た。「なんだ、わかってるじゃない」(笑) 正解だったようだ。
私が質問した視点は「時代のズレ」=「違和」であるわけなので「それそのものが一つの表現になるのではなかろうか?」である。師は「意図したのなら表現だよ。でも違和の調和があるはずだ。単なる違和は違和でしかないからね。そこまで見越した作品なら認めるけど、そうした視点の作品はまず偶々出来たに過ぎないだろうね」と仰った。
素人とプロ
その違和は「寄って来るモノ」ではなく「意図したものでもなく」単なる偶然。「意図していないのなら単なる違和としてあるだろうね。ズレてるんだから。わからない人も多いようだけで僕はわかる。あ~偶々上手くいったんだなぁと思うね。僕はそういう作品は評価しないよ」と仰った。というのも次は無いからだ。次があればそれは偶然ではなく意図である。
美の味覚障害
若干反れると、美の味覚障害に話は展開した。つまりそれが心地良いとしたら単なる味覚障害だろうと。その人にとってはそれが心地良いのならそれは否定しない。でも、それは広くは受け入れられないものだし、バランスは欠いている。その時点で、意図して目指すべき方向ではないことは明らかという話になった。
プロとアマ
「偶然出来たものを出すのは素人。意図して出すのがプロ」と言った。勿論、プロでも偶然性が才能を超えることはある。それは結果なので構わない。その人は幸運であると言った。素人の偶然は文字通り偶然である。続きは無い。つまり素人となる。先生は終世、素人は嫌いだった。それは魂の燃焼が無いからだ。これは表現そのものの根幹にあたる。この話はまた別な機会に。
今回の総括
- 古典をやるのは表現に「豊かさ」を肉体と目に獲得する為。
- 次に課題になるのが古典期と現代の時代のズレ。それはいずれ埋める必要が出てくる。次回は弟子向けになります。