上手くなる方法(1)
「書いているという意識がないぐらい当たり前のように日々書くこと」
野尻が度々聞かれる問に、「上手くなる方法というのはあるのですか?」というものがあるそうです。野尻は答えます。「書くことです」 すると、「書いてますけど?」とかえされ、一問答があるのですが、多くの場合、野尻は相手の理解力に委ねるため、問うた本人が理解することなく問答は終わるようです。以前私は、「明らかに相手が誤解しているのに、何故先生はそれを知りながらそのままにしておくのですか?」と聞いたことがあります。すると、「相手が理解出来ないことが明白なのに、それを説明するのは酷というものだよ」と言いました。
今になって思えば、この野尻の一言というのは非常に深く、素直な本音であり、氏の累々たる修行の果てに行き着いた答えを正直に照らしていると理解できます。それが何故多くの場合理解されないかの要因について、野尻は「当然だろうね」と私に語ります。
曰く、「理解出来ないということは、今現在その道程にいないということであり、ましてや通っていもいない。その上で、私の言葉を受け入れられないということは、言葉を受け入れる度量もないということ。その時点で何も語ることはない」ということのようです。
書に限らず、上手くなる手っ取り早く確実な方法は”やること”に他ならないと重ねて語ります。書ではあれば書くこと。そう言うと、多くの場合は先述したように『書いてます』という言葉が返ってくるそうです。「沢山書くこと」と答えると、『沢山書いてます』と答える人もいます。
野尻の言う”書く”ということは、”書いているという意識があるのは書いたことにならない”という意味です。ましてや『沢山書いてます』というのは野尻の感覚では「私は書いてません」と宣言しているようなものだそうです。野尻は私に、「好きと嫌いとか、調子がいいとか、悪いとか、頑張っているとか、頑張れないとか、努力しているとか、していないとか、書いているとか、沢山書いているとか、言っているうちは土台話にならないんだよね」と語ります。
「ただ書くんだよ。とにかくやるの。それが近道。頭が働いているうちは土台無理だな」