その中で自らの美観について気づかされることは多いです。
私は集合美が好きです。
なので隷書や楷書を目が好むのですが、
これは何も書に限ったものではありません。
あらゆる事象に関しても密集しているものにある種の美を感じます。
新宿にある「うまい棒」(鳥の巣ビル)を見ると何度みても感動します。
草書にも関わらず密集させてしまうのです。
書きあがった結果をみると、
より大きく、より密に、と書いてあります。
こうしたブログの文章にしても、
私は密で大量です。
やはりそういう美観があるようです。
草書は間合いで見せる部分が非常に重要です。
これでは間合いで魅せることはできません。
密集させたいという美観は
同時に私の精神性の反映そのもののように思えてきます。
私はとかく費用対効果を気にします。
投じた費用に対してどれだけ効果を発揮するかという考えです。
ビジネスにおいては基本でかつ重要な考え方です。
サラリーマン時代に耳にタコが出来るほど仕込まれたという
のが要因でありますが、こうして自らの書を客観的に分析すると、
元々集合美に対し美観があったので、
そういう考え方を受け入れる精神的素養があったと考えられます。
書を通して精神的な幅を広げることは可能でしょう。
むしろその部分が大切に思います。
昔から日本人が書を続けていたのには教育上ちゃんとした理由があったのだと改めて思います。
書は精神性の表れそのものです。
自分の素地とは逆のことをすることである種の枠を無意識に植え付けることが可能です。
書の反復行為というのは比較的容易にできます。
人としての幅を広げるのに書にいそしむ反復行動には意味があると考えております。
私は元々密に美観があるため、
疎の反復をすることで、自らの精神性に疎の背景を加えることが可能になると考えています。